みなさん、ブルー・カントゥレルを覚えてますか? あの「やり返したりーな!」な“Hit 'Em Up Style”や、青色吐息な“Breathe”はインパクト抜群だったので、2000年代前半にR&Bを聴いてた方なら「いたいた!」て感じでしょう。
個人的には1stアルバム『So Blu』(2001年)が大好きだったフェイバリット・ブルーなシンガーなのですが、ここ10年近く目立った活動なし……と思ったらいよいよ復活ですよ姐さん! (紹介しそびれてた)新曲“S.O.S. (Tell Me Where You At)”に続いて、得意のスウィンギンな“Get The F*** Out”キタ! これ待ってた!
彼女のカムバックについては9月の時点で、インディR&B~ソウルの良心中の良心たるYouKnowIGotSoulにそれはそれは濃すぎるインタビュー記事「Interview: Blu Cantrell – Real Knowledge, Real Emotion, Real Talent Straight To Your Ear & Heart」が載っていて知ってました。ニュー・アルバムについてはほぼ完成しているそう。ちなみに、最近の彼女のライヴ・バンドには鹿児島出身のギタリスト、Shuhei Teshimaさんが参加しているそうで日本にも連れてきてほしいですねー。
さて、紹介しようにもあまりに濃い内容だったので時間がかかり過ぎていたYKIGSのインタビューを、簡単に要点だけ抜粋して紹介します。
元々はテディ・ライリーのガールズ・グループにいた
ブルー・カントゥレル、本名ティファニー・コブ (Tiffany Cobb)。アメリカの東北、ロードアイランド州の州都プロビデンス出身。お母さんがイタリア/ドイツ系の白人となるミックスとして生まれました。そのお母さんは、ミス・ロードアイランドに選ばれ女優もやっていた上、ジャズの歌手だったということで、お母さんのいいところ全部受け継いだ感じ。両親は離婚していて、このお母さんに育てられたそう。
さてそんな彼女、具体的な経緯は不明なれど、そもそもテディ・ライリーが抱えていたガールズ・グループにいたのだとか! 彼女が所属していたというエイス・アヴェニュー(8th Avenue)といえば、ブラックストリート『Finally』(1999年)の“I'm Sorry”や“On The Floor”などにコーラスとして参加していたグループ。ちなみにイントロを歌っていたクアナことシャクアナ・エラム (Shaquana Elam)―― 当時推定15歳――は後にザ・レイン(Tha Rayne)のメンバーに……というのは別の話ですが。そうですかそうですか。エイス・アヴェニューはブラックストリートの分裂と共にバラバラになってしまった模様。まぁよくある話です。
姉妹の交通事故がトリッキー・ステュワートとの出会いを作った
しかし、彼女はいったいどうやってアトランタのトリッキー・ステュワート(Tricky Stewart)にまで辿り着くのか。実は、姉妹がアトランタで交通事故に遭い、昏睡状態になってしまったため、家族でアトランタへ移っていたのだそう。これがトリッキーへの出会いを導くとは……。そしてこちらも詳しい経緯は不明ですが、アッシャーと知り合いだったそうで(エイス・アヴェニュー時代のつて?)、それでトリッキーを紹介されたそう。
そしてトリッキーとの制作がスタート。当初はトリッキーもガールズ・グループ用の女性シンガーを探しており、グループ時代のブルーの録音については「どれが君の声か分からなかった」と言われていたようですが(確かにブラックストリートの音源を聞いても分からない)、スタジオでトリッキーがぽろろ〜んと弾きだしたら、ひらめいた!とばかりにブルーが歌いだし、それを聞いたトリッキーたちからソロ歌手のオファーが。この時、昏睡状態になっていた姉妹が目を覚ましたため、家族はリハビリのため地元に戻ろうとしており、「君にはここにいてほしい。一緒にレコーディングしよう、君のレコード契約も取ってこよう」と引き留められたそうです。そしてブルーもこれに同意、(トリッキー率いる)Red Zone入りしたのでした。
なお、この姉妹の事故→昏睡状態には精神的にも大きく影響されたそうで、デビュー作『So Blu』の制作そのものが、彼女にとっては一種のセラピーだったそう。特に“I'll Find A Way”などはそういった彼女の精神状態が表れた曲だそうです。
LA・リードとその場で契約
ここからはかなり眉唾モノですが。トリッキーとの制作開始から数日後、ブルーはLA・リード(L.A. Reid)との運命の顔合わせを果たします。トリッキーが、Arista社長になったLAに直電、「いい子がいるよ。他の奴らが見つける前にうちに聴きに来てはどうだろう」と呼び寄せ、まんまと(?)翌日LAがやってくるのです。
そこにはブルー以外にも何人かのアーティストがおり、トリッキーは彼らの曲をLAに聴かせます。当時23歳くらいだったブルーはギャルだったのか (?)「12歳くらい」に見える格好だったそうですが(どんな格好だ……)。ともあれ、LAはある1曲を聴いた際に反応。これがブルーの曲だったわけですが、面白いのが、LAが「これ誰が歌ってるの?」と周囲を見回してもブルーはスルーされたというエピソード。あらかた指差した後にトリッキーから「まだひとり残ってるよ」と言われて、LAは「この子?! この子からこの声が?!」と驚いたそうで。
そして驚いたLAは、「信じられない。生で歌ってくれ」と要求。トリッキーは「彼女は姉妹が亡くなりそうになったばかりだし、風邪引いてるし、いろんなストレスを抱えていて、ほとんど声もでない」とめっちゃフォローを入れますが、LAは「できるかぎりでいいから」とその場でのパフォーマンスを希望。すると、ブルー曰く「どういうわけだかレコーディングよりもうまく歌えた」「私は当時すごくシャイだったのに、自分でも信じられないけど、大股開きで彼を指差したりしたの。みんな口ぽっかーんよ。私は全然覚えてなくて、後で教えてもらった話だけど」と、“サーシャ”化したとか(笑)。さすがにこのへんのエピソードはかなり“盛ってる”感がありますが(風邪はどうしたんだよ)、いずれにせよ彼女のパフォーマンスを気に入ったLAから「ぜひうちと契約してほしい。他には渡したくない」と言われ、当の彼女も、アレサやホイットニーのいるAristaというだけあって「もちろん!」と即答。トリッキーが「ちょちょwwwまずちゃんと話を聞いて から」となだめに入るくらい、即答した模様(笑)。そして弁護士を入れてちゃんと話を聞き、11時間後には無事契約成立、と。
「女版ビギー」と呼ばれていた
このインタビュー記事の中でもっともパンチラインだったエピソード。
「私は、曲を“書く”ってことはしないわけ。当時Aristaのアーバン部門副部門長だったマーク・ピッツからは、“女版ビギー”って言われてた。というのも、私はレコーディング・ブースに入って、その場で曲を作っちゃうから。ふつう曲を作るのに数時間かかるものだけど、私の場合15分で済んじゃうのよ」
つまりフリースタイルで曲を書くと……。しかし、“Hit 'Em Up Style”など『So Blu』で聴かせる彼女の歌にはジャズのパッセージを理解したフェイクやメロディラインがちょくちょく出てきて、いわゆるインプロヴィゼーション的に即興で歌うのは元より得意だったのでしょう。「プロフェッショナルな訓練は受けたことはない」とのことですが、さすがはジャズ・シンガーの娘といったところでしょうか。
ちなみにマーク・ピッツは元々ビギーのマネージャーで、現在はSony系のアーバン部門では非常に重要なエグゼクティブ。クリス・ブラウン、J・コールらを送りだしてますし、最近もミゲルをブレイクさせてます(シアラはコケまくってたけど)。
ほかにも、「アーティストはもっと契約や法律について勉強するべき」と熱弁をふるうところも面白いです。自分はAristaから10ドルももらってない、その失敗をもとに勉強したのだと語り、契約や法律を理解することの重要性を主張しています。
一方で、LA・リードやトリッキーには色々と教えてもらったと感謝の念を語っており、特にLAのことはかなり信頼している様子。彼女は2ndアルバム『Bittersweet』発表後から音沙汰がほとんど途絶えましたが、LAがアリスタ社長の座を追われた(2004年)のを受けて、自分もアリスタを辞めたのだとか(LAには当時、「これは彼らにとって最大の失敗になる」と予言したのだそう)。まぁ実際にはこのゴタゴタでブルーはろくにプロモーションをしてもらえず、Arista側も契約更新を申し出てこなかった、のだそうですが。それからはフリーランスでやっているんだそうです。
具体的にこの空白の期間なにをやっていたのかとかは語られませんが、面白いインタビューです。そしてwelcome back!!! 今後に期待。
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